劇団四季公演 ディズニーミュージカル「リトルマーメイド」
ちゅー太の劇評
出演者
アリエル小林由紀子 エリック竹内一樹 アースラ 鈴木釉佳之 セバスチャン 荒川 務 トリトン田島亨祐
シェフ・ルイ リーワード 清水大星 フロットサム 有賀光一 スカットル雲田隆弘 グリムスビー 岡崎克哉 他
ミュージカルシアター四季劇場 夏で公演中のリトルマーメイドを観劇。
劇団四季が新次元のミュージカルとして創立60周年の2013年4月7日に
東京の大井町の夏劇場で幕を開けた作品だ。
ステージエンターテイメント社というオランダの興業会社と
デイズニーとのタイアップ作品で、舞台装置はアイーダ、アラジンの
ボップ・クローリーだ。
この作品の特徴的なのは主役のアリエルとエリック他と
アンサンブル男女14人と合わせて26人と言うこじんまりした所だろう。
舞台全体を海の中と言う表現で舞台は作られており
フライングの利点を生かしての舞台つくりだ。
劇団四季の役者も時代と共に順次若返りをしているのだろうが
どしてもミュージカル劇団と言うイメージが近年一般的に強く伝わっている感じだ。
そこで、どうしても踊れる人、歌える人と言う部部的な面での役者起用にならざるを得ない。
そうすると演技の方が自然と空洞化していく雰囲気を感じざるを得ないのだ。
今回は人魚アリエルを演じる小林由希子は芝居の軸として出てきた瞬間のイメージの
訴えるパワーがないのが残念だ。
芝居は舞台に出る瞬間に魅力的人魚姫のイメージを観客に与えてしまわないといけない。
そうした事で観客はそれそれが自分なりのイマジネーションを抱いて舞台を見ていく。
そこに舞台役者も演技する充実感を持ち、舞台が出来上がるのではないだろうか?
アリエルの場合は歌っている、見せているという個人的な雰囲気が漂ってくるのだ。
どうしても若い時代は、見せてやろうという気持ち一辺倒になると十三代仁左衛門さんが
生前話していた。
そして歌と次の台詞になる所が連結していかないのと、芝居の分部になると演技と言う
基本的動作の未熟さが出てくる。それと歌声がいささか割れ声に聞こえたのと
歌で訴えるという力を感じられなかったの矢張り、ただ舞台の進行に従い歌っていると?
よく言う舞台の空気を動かしていくのはアリエルなのだから。ダンスでも見せてやろうという
気持でおどるダンスは、踊りにならないのと同じだ。
エリックの竹内一樹は、第一に背丈があるだけに目線に気配りをして欲しかった。
彼もアリエルを芝居をあまり受けないで自身の流れで芝居をしていると風な印象を受けた。
アリエルとエリックの間には甘い空気を感じさせてくれなかった。
演技と言うよりは、アリエルに対しての自分の姿かたち台詞に気持ちがながれているように見受けた。
そうした空気が動かない舞台を動かしていたのはアースラの鈴木釉佳之だ。
あくを感じさせる雰囲気が舞台にでた瞬間からよどんでいた舞台の空気を一気に吹き飛ばした。
その昔はアイドル歌手その後は歌手そしてアースラを演じて、その歌い方は海中の中の
魔女アースラを見事に演じていた。
よく言う歌は語れ、台詞は歌えと。
矢張りベテラン役者は、それなりに、その雰囲気を作り出す仕方を良く知っている。
それともう一人、シェフの清水大星だ。一瞬嫌みがあるかなと思わせながら、それを武器に
一気に観客をシェフ一点に集中させるしたたかな、あくを持っている。
男女のアンサンブルを見ていて、その昔オペラ座の怪人とかコーラスラインとかに
出ていたアンサンブルの人たちは、すぐにでも次の舞台で中軸の役を演じられそうだという
人たちがいたが、今は見ていて皆以下同文的雰囲気の人たちばかり
此れも時代かと、然し、劇団四季でないとミュージカルは出来ないとされて来た時代から
今、それなりの役者が集まりとミュージカルは出来るという雰囲気が演劇界の中にも
生まれてきていることを、ニュー劇団四季のスタッフも役者も意識する必要がある。
つまり、過去においては、一段置いて差別化してきたのが劇団四季の個性が、同色になってしまっては
何の意味もなくなるからだ。
過去の劇団四季の役者の雰囲気、技量は特別だったのだ。いい意味での四季節、その立ち方,ふるまい
そのカラーが失われて、何処の役者ともフィーリングが同色では、何の意味もなくなるからだ。
個性を持たない事は舞台の役者として意味がない。
観終わった時、王子と人魚の愛の物語と言う甘い雰囲気が後を引かないで劇場を去るという事も淋しい。
この公演、不思議と娘を連れた母親の姿が目に付いた。
惜しまれるのは劇団四季の,名優、日下武史さんが元気で演技指導が出来たらなあとただ思うだけだ。
観劇 劇団四季ミュージカルシアター夏 2016年3月27日 13時公演 ちゅー太
劇評コーナートップへ
トップページへ戻る